江戸時代のはじめ頃、川崎を通り、江戸に行く街道は五つありました。
古くは平塚宿から中山ー用田ー中原村を通り、小杉村から丸子の渡しを通る「中原街道」が利用されていました。また、鎌倉から保土ヶ谷ー新羽ー神地ー小杉村のルートもあり、徳川家康をはじめ、秀忠、家光など将軍は「お鷹狩り」に小杉村を訪れ、通称「小杉御殿」で休憩されました。
江戸に行き来する大名、旅人などの人々で、小杉村は街道の主要地点として大層賑わっていましたが、川崎を通る道『東海道』が出来ると次第にさびれていくようになります。
家康は慶長5年(1600年)に六郷川の蒲田ー川崎間に木の大橋をかけ、神奈川ー川崎ー蒲田ー品川を結ぶ海岸ルートで江戸に入る主要道としました。
この大橋は1688年に流失する迄88年間、旅人や近隣の人たちに親しまれましたが、この後、橋は再び作られることなく、渡し舟のみの往還となりました。
歌川広重『川崎(六合渡舟)
川崎宿
徳川家光の時、1623年に距離のある品川宿ー神奈川宿の中間に川崎宿が新設されましたが、この宿場は、久根崎、新宿、砂子(いさご)、小土呂の四ケ村による寄り合い宿であり、幕府の命によって、主要な役割りである「人馬継ぎ」の為、人足36人、馬36頭をいつお用意しておかねばならない事は、やがて地元のの人達にとっては、大きすぎる負担となり、疲弊した宿場はさびれてしまいました。
その後、田中兵庫【詳細】によって宿の財政が立て直されてから、めざましい発展を見せ、1800年代の中頃には、旅籠数70戸以上、人口は2,400人を越える繁盛を見せるようになります。
川崎宿の賑わいの中心はと六郷渡船場を上がった宿場の入り口あたりで、万年屋、会津屋、新田屋などの旅籠屋が並び、川崎大師への参詣路の入り口ともなっていました。
「六郷渡れば 川崎の万年屋 つるとかめのと米(よね)まんじゅう」
と歌われるほど人々に親しまれていました。
万年屋
本陣
宿場の一番の仕事は、将軍や大名の「人馬継ぎ」、つまり行列用の人足と馬の交代が使命でした。
そのため、川崎宿には上と下、二つの「本陣」と呼ばれる大きい宿舎が用意されました。上は砂子の佐藤家、下は新宿の田中家が務めました。
佐藤惣之助
川崎宿の上の本陣「佐藤本陣」は、旧東海道いさご通りの川信本店の向かい側、現セブンイレブンあたりにありました。
佐藤惣之助は、この佐藤家の末裔にあたり、この地に生まれました。大正の末期から昭和のはじめにかけ数々の詩を発表した惣之助は、昭和5年頃から歌謡曲の作詩を手がけはじめました。
以下、戦前戦後にかけて大ヒットした歌謡曲のほんの一部を紹介します。
「赤城の子守唄」(昭和9年)佐藤惣之助作詩・竹岡信幸作曲・歌:東海林太郎
「大阪タイガースの歌」(昭和11年)佐藤惣之助作詩・古関裕而作曲 ♪六甲おろし〜
「東京娘(昭和11年)」佐藤惣之助作詩・古賀政男作曲・歌:藤山一郎
「男の純情」(昭和11年)佐藤惣之助作詩・古賀政男作曲・歌:藤山一郎
「人生の並木道」(昭和12年)佐藤惣之助作詩・古賀政男作曲・歌:ディック・ミネ
「青い背広で」(昭和12年)佐藤惣之助作詩・古賀政男作曲・歌:藤山一郎
「湖畔の宿」(昭和15年)佐藤惣之助作詩・服部良一作曲・歌:高峰三枝子
「新妻鏡」(昭和15年)佐藤惣之助作詩・古賀政男作曲・歌:霧島 昇・二葉あき子
「青い背広で」
青い背広で 心も軽く |
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総之助生態の地(いさご通り) | ||
「祭の日」詩碑 祭の日は佳き哉 つねに恋しき幼き人の あえかに粧ひて 茜する都の方より来る時なり |
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詩碑(稲毛神社) | ||
「華やかな散歩」
村の娘達とつれ立つて |
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市体育館前 |
いさご通り 街角ミュージック
歌謡曲の発展に貢献した惣之助ゆかりの地ではじめられた『街角ミュージック』は、音楽をこよなく愛する若いミュージシャン達が、それぞれのジャンルでオリジナル曲の発表の場とし、カバー曲に挑戦し、自らの可能性を信じて歌い、演奏し、語る場所として『いさご通り』が、毎月一回(土・日)にかわしん広場で開催しています。【公式サイト】
橘樹郡(たちばなぐん)
古く、大和朝廷の頃、東国を従えるため派遣された武官ヤマトタケルノミコトの危機を身を捨てて救った妻、オトタチバナヒメに由来すると言われています。武蔵の国 橘樹郡として朝廷から任命された国司が治めていました。
川崎市の大部分は昭和の始め頃、神奈川県 橘樹郡と呼ばれていて、いさご通りに郡役所がありました。
いさご通りにある郡役所跡 記念碑
いさごの里
足利幕府の頃、関東の実力者、太田道灌は幕府に反抗する勢力を制圧するため、河崎荘・稲毛荘へと進軍し、多摩丘陵の最東端に夢見ケ崎の山頂に立ったのは、この地方の豪族を滅ぼした1477年の事でした。
現、幸区、川崎区の一帯は森と田畑、点在する民家があり、田島・大師地区のあたりは白い砂浜があって、青い空と海のさわやかな自然あふれる景観が広がっていました。
道灌は、
「かもめいる いさごの里にきてみれば はるかに かよう おきつ浦風」
と詠みました。
530年も昔の「いさごの里」は海岸地帯の寒村だったようです。
「麦の穂を たよりにつかむ 別れかな」
京浜急行、八丁畷駅の近く、旧東海道沿いに句碑があります。この俳句は1694年に、この時代の俳人・松尾芭蕉が江戸から郷里の伊賀に帰る時、江戸から送って来た門人と川崎宿のはずれで別れる際に作りました。
戦後、偶然発見された句碑は個人の尽力によりこの場所に設置されています。
いさごの里資料館